日韓慰安婦問題 〜現在の世の中の状況を掴むのも難しい、ましてや70年以上前の状況なんて〜
今朝、読売のこんな記事を目にした。
米の公園に慰安婦少女像、日韓合意以降で初 : 国際 : 読売新聞(YOMIURI ONLINE)
米南部ジョージア州ブルックヘブン市の公園で6月30日、慰安婦を象徴する少女像の除幕式が行われた。
またか、と思ったのと、韓国人をそこまでさせるものは何なのか、どれくらいの%の韓国人がこれを支持するのか、そして実際のところ、この問題の事実はどこにあるのかと疑問に思った。
慰安婦についてwikipediaで調べるとかなり詳しく書いていた。日本語のページなので全体の意見として日本側からの視点になるが、出典もしっかりしていそうで、一つ一つの記述内容の信頼性は低くはなさそうなので、私の意見としてまとめてみたいと思う。
と、まとめる前に、
偉そうな言い方になるが、歴史の認識、事件の認識、情報の精査が上手くできていない人をよく見かけて悲しくなる。
人がそれぞれ意見が違うのは当然だが、情報を捉えるのがより上手いか、より正確かは存在すると思う。
人は、完全に自分の色眼鏡バイアスを省いて情報を捉えることはできないかもしれないが、その中でも、できる限り色眼鏡の色を薄くする方法はあるし、そうすべきだと思う。
上手く情報を捉えるには裁判官のような視点を持つことが大事だと考える。
どういうことかというと、情報から「意見」ではなく事実・証拠を集めて、最終的に判断するということ。簡単に言うと出典のない情報を、情報として扱ってはいけないということ。
1、慰安婦は存在したのか?
→慰安婦は存在した。大戦時には各国それぞれの形で性問題の解消法の型があったようだ。
第二次世界大戦時の性政策[編集]
秦郁彦によれば、第二次世界大戦当時の戦地での性政策には大別して自由恋愛型(私娼中心。イギリス軍、米軍)、慰安所型(日本、ドイツ、フランス[173])、レイプ型(ソ連)の3つの類型があった[174]。
日本軍による強姦が発生したので、それを抑えるために(国によるか民間によるかは後述するが)慰安所が設けられた。この、国が民間かが一つのポイントである。
自由恋愛型のアメリカ軍の例では、
『ノルマンディーに上陸したアメリカ軍が多数のフランス女性をレイプし、性行を行っている姿を見ないで街を歩くことが出来ないほどの状態になったためル・アーヴルでは市長が郊外に慰安所の設置をアメリカ軍指揮官に懇願したがアメリカ軍はこれを拒否している[177][178]。』
戦争で軍人が他国に入ること自体、今では言うまでもなく罪だが、当時は慰安婦が設けられたのは軍人が性的問題を起こさないための一つの策だったのかもしれない。
自由恋愛として強姦を行った米英でなく、慰安婦を連れて強姦を抑えた日本が慰安婦問題を抱えているのは皮肉ですが。
さて、正しく情報を捉えようとするなら、この『性行を行っている姿を見ないで街を歩くことが出来ないほど』は「意見」の部分が多い。あくまでも証拠がないし証明しようがない。人が大げさに証言することなんていくらでもある。『市長が郊外に慰安所の設置をアメリカ軍指揮官に懇願したがアメリカ軍はこれを拒否している』は文書が残っていれば証明できるであろう。
2、日本軍が慰安婦を設置したのか?
→直接設置した事実は、慰安婦は日本による性奴隷制度だとの立場で有名な吉見ですらないと認めている。
→ただ、民間が行うのを許可していた面はあるだろう。
(要出典)
朝鮮や台湾において、日本軍が奴隷狩りのような強制連行(「狭義の強制」)をしたという資料がない。
3、強制連行があったか?
→少なくとも物理的な強制連行は無かった(有ったという証拠はない)ということが共通認識として成立している。
強制連行の有無[編集]
元慰安婦の実名告発が始まった頃から、慰安婦となる過程についての証言が曖昧であったことから、実際に強制性が存在したかについてが議論の的になった。「強制」の定義(物理的な連行か、組織的な連行構造か、家庭状況などの周辺からの無形の圧力を考慮に入れるのか)も論者により異なるが、少なくとも物理的な強制連行は無かった(有ったという証拠はない)ということが共通認識として成立している。
日本で工場で働かされた挺身隊と慰安婦が混同されたせいで、強制的に慰安婦として連れて行かれたと当時の朝鮮ではパニックになったようである。
韓国における「挺身隊」と「慰安婦」の混同と流言[編集]
当時の日本で使用された「挺身隊」と「慰安婦」のことばはそれぞれ、まったく異なるものである[51]。「挺身隊」は主に工場などでの勤労労働に従事する女性を指し、「慰安婦」は戦地内地等での公娼・売春婦を意味していた[634]。しかし、後述するように戦中当時にも朝鮮社会ではすでに両者が混同されてパニックに陥っていた家族もあった。
〜中略〜
そのようなデマについて政府も認識しており、1944年6月27日の内務省文書では
と「荒唐無稽なる」「悪質な流言」と記載があり、日本政府はそうしたデマを民族主義者による反日謀略とみなしていた可能性も指摘されている[51]
=====
他にも、「処女・少女の強制連行」や「小学生慰安婦」の言説もあったようである。
====
西岡力の調査によれば、1992年1月14日の「小学生挺身隊」記事を初めて執筆したのは連合通信の金溶洙記者であった[644]。西岡が12歳の少女が慰安婦になったという事実はないのになぜ報道したのかと質問すると、金記者は、富山県に動員された6人の児童が慰安所でなく工場に動員されたことは事実であるとして
と弁解した[645]。この金溶洙記者による弁解で「小学生慰安婦」の存在が証明されたわけではないことが明らかになり[646]、またその後、当時挺身隊だった女性が名乗りでて、新聞報道が誤報であったことが判明する[638]。
====
民間の業者による連行があったが、そうした業者を国は取り締まっている。
売春斡旋業者の取り締まり:1937-1938[編集]
1937年から翌38年にかけて売春斡旋業者の取り締まりに関する通達等が多数出された。
1938年11月15日には、群山市の紹介業者が釜山で女性を遊郭に売却したとして逮捕され[331][321]、1939年3月には河允明誘拐事件が発覚[332][333]、斡旋業者の河允明夫婦は1932年頃から朝鮮の農地でいい仕事があるとして約150人の貧農を満州や中国に700円 - 1000円で人身売買していた[334][333][335]。東亜日報は「誘拐した百余の処女」「貞操を強制蹂躙」と「処女」たちが河夫妻に誘拐されたと報道[336]、社説「誘引魔の跋扈」で朝鮮の悪徳業者を批判した[337]。雑誌「朝光」も「色魔誘拐魔 河允明」と題して、処女の貞操が蹂躙されたと報じた[338]。
また、続いて逮捕されたペ・シャンオンは1935年から1939年にかけて約100人の農村女性を北支と満州に、150余人を北支に売却していた[333]。また下級役人が戸籍偽造に協力していたことも発覚した[333]。
4、奴隷だったか?
慰安婦の生活状況[編集]
- 日本軍慰安婦
- 慰安所が造られた多くの場所は占領地であり、いつでも戦場になる地域だった上に、軍と業者は慰安婦の人身を拘束し逃亡を防止する事に神経を使っていた[593]。連行された少女達は、散歩する区域や時間帯まで細かく管理され、積慶里のように数十軒も連なる慰安所では、通りの出入り口に警備兵が常駐し[594]、憲兵が巡回していた[595][593]。
報酬・料金[編集]
- 日本軍慰安婦
750円を前借金の返済にあてた。同報告によれば稼ぎは月に1000 - 2000円、年季は半年から一年で一部は帰還した者もおり、他方、兵士の当時の月給は15円 - 25円であった[605][606]
- 吉原で10年間、娼婦をしていた高安やえは、内地(日本)で商売を始めるために、10倍稼げるという理由でラバウルで慰安婦となったといい「一人5分と限り、一晩に200円や300円稼ぐのはわけがなかった」と回想している[610]。
5、虚偽をした日本人
日本人の嘘の証言で
が書かれたよう。これによってアメリカではsex slaveは存在したものとして認識されるようになった。
日本政府は、マクドゥーガル報告書はゲイ・マクドゥーガル個人報告書にすぎず、受け入れられないと回答した[457]。